小石の眼から見た景色 あらかた50主婦のあったこと録

その辺に転がっている小石のあれこれ体験録です。

彼女の作文に恋をした

私の数少ない親友、R子との思い出話です。

 

彼女とは、中学で出会いました。

別の小学校出身のR子は、思慮深く、賢く、おおらかで、友人たちがいつも彼女を取り巻いていました。

 

同じ部活でしたが、人付き合いの苦手な私には、人気者の彼女が眩し過ぎて、距離を感じていました。

 

作文がわからなくなった

前記事で触れたように、私は「大人の望むように答える」ことを意識する小学生でした。 

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でも、どうもその「大人の望み」に過剰に反応してしまっていました。

何を聞きたいのか?だけを察すればいいのに、何と答えてほしがっているか?まで、勝手に感じ取ろうとしていたと思います。

 

私は、5,6年生の頃から、徐々に混乱し始めていました。

求められていると感じた答えと、自分の思うことが違う。

期待されていると思う人物像と、ドロドロした本心を持つ自分との乖離。

 

いわゆる反抗期もあったかもしれません。

中学生になると、他にも色々と大人への不信感が募ることもあり、作文で大人に受けそうなことを書かないよう、気をつけるようになりました。

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 反抗が作文というのも妙ですよね。

でも、母は元教師だけあって、提出前に必ずチェックする(そしてダメ出しする)ほど作文に関心がありました。

母は、急に作風が変わり、書きたい放題書く私の変化に驚いていました。

 

特に問題意識も持たず、思ったこと、感じたことを、ただつらつらと書くのは小気味良く、反面、もちろん全く評価されなくなりました。

 

私は、評価されない方がカッコイイような、文集に載るのは優等生ぶっているような、変にひねくれた感情を隠し持つようになっていました。

作文って何なのかわからなくなってしまった私の妬みの感情です。

 

作文だけではなく、ピアノ、習字、絵画などで入賞したり、表彰される人たちに笑顔で拍手を贈りながら、心の奥に嫉妬やひがみが蠢いている自分が嫌いになっていきました。

他の人はどうして笑顔で称賛できるのだろう。私の心は何と醜いのだろう。

 こんな自分がバレたらどうしようと怯えていました。

 

彼女の作文に恋をした

ある時、優秀な作品の例として、R子の作文を国語の授業で読みました。

誰に媚びるでもない、堂々とした文章でした。

 

  そこには、彼女が習字が上達しない悩みと、自分より上手な人を羨ましく思う気持ちが、正直に書かれていました。

けれど、自分より上手な人は、自分よりずっと頑張ってきたのだろうから、やはり素晴らしいと素直に称賛する気持ちがありました。

 

そして、ピアノの上手な友達について、

自分はピアノを弾けないけれど、習ってきていないからであって、自分を卑下する必要はない。

 けれど、自分は習っていなくて弾けないことと、友人がずっと頑張ってきて、ピアノを上手に弾けることは事実なので、素直に尊敬している。

 

・・・もっと、綺麗な文章だったのですが、ごめんなさい。

 

彼女の作文の内容は、どんな崇高な言葉よりも、当時私が求めていたものでした。

誰かを素晴らしいと称賛しても、できない自分を卑下する必要なんか全くない。 

心がすっと軽くなりました。

素直に素敵な作文だと思いました。

 

私はその作文にをして、「彼女と友達になりたい!」と強く思いました。

誰かと「友達になりたい」と思ったのは、初めてでした。

 

部活で、取り巻きに負けずに積極的に話しかけ、一緒に帰れるタイミングを計り、用事を作ってはクラスに押しかけ・・・

自分でも驚くほど積極的でした。あれはまさに恋心。

 

幸い、色々と共通点も多く、高校でも同じ部活、同じクラスになり、やがて進路の悩み、恋の悩みなどなど、何でも話せる親友になりました。

 

 さすがに、子どもの頃、家庭内での困り具合は詳しく話せなかったけれど、大人になり、「あの頃は・・」と話せることも増えました。

 

 

先日、帰省した時、R子と少しだけ会うことができました。

そう言えば、5年くらいぶりだったのに、まるで昨日の話の続きのように、おばちゃん2人、フードコートで訛り丸出しで喋り続けたのでした。

 

親友って時間も距離も関係ないな〜と笑いながら思っていました。

私が、彼女の作文に恋をしたことは、まだ内緒です。