小学校から大学まで、たくさんの先生方に出会いましたが、「恩師」という言葉で思い出すのは、小学生の頃大好きだったT先生と、大学時代の研究室のJ教授。
今回は、J教授の思い出話です。T先生についてはこちら ↓
T先生からの宿題 - 小石の眼から見た景色 あらかた50主婦のあったこと録
大学3年生になり、私は希望の研究室の一員となりました。
研究室を率いるのは、当時、数年後に退官が迫っていたJ教授。
研究には厳しかったけれど、授業もまあまあ厳しかったけれど、普段はお国訛りがどうしても抜けない(英語話してても訛っている!)ちょっとお茶目な教授でした。
J教授は、教授室に人を招いて、お喋りするのが好きでした。
「同じ研究室で、隣の部屋にいて、バラバラに食事するのが味気ない」と、助教授も、助手も、事務員も、学生も、昼食時に「お弁当を持っておいで」と呼ばれます。
助教授も結構イヤイヤ参加している風、学生はお声がかかる前に学食に逃走。
でも、私は結構楽しみでした。
美味しいお菓子や、奥様お手製のレモネードも時々ご馳走になれたので。
実験の打ち合わせや、論文の相談などで教授室をノックすると、いつも笑顔で迎えてくださいました。
時代はバブル真っ只中。
比較的堅実な学生が多い母校でも、それなりにみんな華やかで、奨学金とバイト生活の私は、地味と言うか貧乏学生な方。
ちょっと煩わしいかもと思うほど、面倒見が良いJ教授は、何かと私を気遣って、家庭教師や実験補助のバイトの口をきいてくださることもありました。
学生時代、私は、かなり気持ちが沈んでいた時期がありました。
元々人付き合いが苦手。
同級生、サークル、研究室の先輩といった、広いようでいてかなり狭い人間関係。
更にややこしい、お年頃ならではの、好きだの嫌いだのといった恋愛関係。
離れて改めてわかった、自分の育った環境の異常さ。その実家のゴタゴタ。
何物にもなれる自信がなくて、周りにも自分にも嫌気がさしていました。
なぜ、J教授とそのような話になったのか、肝心なところを憶えていないのですが、
自分は、能力も知識も、富も力も、愛情も優しさも、何も持っていない、何もできない。
思いやりとか、温かさとか、人として大切なことが欠落している、何て出来損ないのダメな人間なのだろうと、吐き出してしまったことがありました。
J教授は、静かに口を開きました。
ほんさきさん。「施顔」という言葉があるんです。
笑顔も素晴らしい施しなんです。
そして、温かい笑顔を向けることは、誰にでもできるんですよ。
まさに、笑顔を施しながらの言葉でした。
それから、私は「施顔」と自分で書いた小さなカードを、自分の机の前に置いて過ごしていました。
記事にしようと思って調べてみたら、「施顔」ではなく「顔施」なのですね。
やっぱり、ちょっとお茶目なJ教授でした。
せっかくいい言葉を教えていただいたのに、忘れてばかり。
相変わらずの何物でもない私ですが、口角をあげていたら、どこかで誰かのお役に立てるのかもしれません。