国語辞典もお下がりだった。
大人用の地味で硬派な国語辞典。後ろには歴代使用してきた兄たちの名前が書かれていた。
小学生にはやや難解で、調べた語句の説明を読むために漢和辞典が必要になることも度々。
ペらりとした薄い紙に、一定の規則に従いびっしりと印刷されている文字の様が妙に好ましくて、愛読書のように長い付き合いとなった。
誰しも一度や二度は経験があると思うけれど、思春期真っ只中には、「愛」とか「恋」とか「性」だとかをこそこそ引いては、クソ真面目な解説を読んで、ドキドキしたりしていた。
「愛」のとなりには、「相」や「藍」そして「哀」。
好きな人を想ってワクワクして引いた「愛」と同時に「哀」が目に触れて、よくわからないなりに胸がキュンとなったっけな。
宿題をしていても、引いた語句の隣の文字が目に入り、その文字の解説中の語句が気になり、気になる語句を引き、その隣の文字が目に入り・・・
と、辞典の沼にはまってしまい、何を調べていたかわからなくなることが時々あった。
知らない言葉の宝探しのようで、辞典の沼は心地よく、興味は尽きず、宿題はちっともはかどらなかったけれど、ワクワクする時間だった。
(その割には、語彙力も文章力もないのは置いておいて・・)
高校生となり、二男もスマホに加え電子辞書デビュー。
「お母さんの頃は、辞典3冊持ち運んでたわよ。指定カバンがはちきれそうだったわ。」
なんて昔語りには耳も貸さず、スマホで好きな音楽を聴いている。
素晴らしい、良い時代になったな~と思う。
子どもの頃、想像の世界だった「未来」が、怖いくらいのスピードで実現していく。
あの軽い小さな機器の中に、溢れるほどの情報が埋まっているなんて夢のよう。
私も、おばちゃんなりにスマホにも少々慣れて、気になることは、すぐにスマホで検索している。
気づくとテレビもラジオも新聞にも触れず、ネットニュースで気になるものを眺め、お気に入りのドラマの何回目かを観ている日もある。
便利だけど、知りたい語句の隣の文字から沼にはまっていくような、宝探しのチャンスが、これでは失われてしまうのかなと、少し不安にも思う。
確かに「無駄な時間」だけど、意図せず目に触れるものが、自分でさえ気づかなかった、自分の興味を引き出すこともあるんじゃないかな。
高校時代「オールナイトニッポン」を聴いて、好きな音楽を流すだけでは決して知り得ない、初めて知る世界にドキドキしていた。
自分の選ぶ情報ばかりを目にしていては、どんどん心の視野が偏ってしまうんじゃないかな。
検索すれば情報は盛りだくさんだけど、幅広い分野の「検索ワード」を知らないことには、幅広い情報を手に入れられない。
意図せず目や耳に触れるものから、それまで思いもしなかった「検索ワード」を見つけ、もっと自分の世界を広げられるかもしれない。
なんて言いながら、ぼや~とラジオを聴いている言い訳?
テーマ決めや、カテゴリー分けが上手くできなくて、雑多なことを徒然書いているこのブログの言い訳かもしれないけれど。
ほんさき