昭和一桁生まれの父を見送ってから、もうすぐ5年になる。
父は、娘から見ると、大きくて強くて厳格で、滅多に怒らないのにとにかく怖くて、そして頼もしい人。
幼い頃から、身体の弱い母が寝込むたびに「死んでしまうのだろうか」と怯えていたのに、私はなんとなく「父は死なない」と思っていた。
必死にそう思い込もうとしていたのかもしれない。
両親に対しては、複雑な感情がある。
両親の作り上げた家庭の中で受けた理不尽な諸々は、つまり両親のせいであり、
しかも、救いを求めても助けてもらえなかったという思いは、決して消えない。
それでも、私が今この世に存在でき、嫌なこともあったけれど、幸せも溢れるほどに感じられるのは、両親があったからこそ。
そして、もう二人はこの世にいないのに、今でも両親からの承認を欲する気持ちが心のどこかに存在している。
5年前、あちこちに転移したガンの痛みと闘いながら、父はギリギリまで母との思い出の家で一人暮らしを続けた。
診療所の医師の往診、訪問看護、デイサービス、ホームヘルパーさんの家事援助やお弁当の配食サービス。
遠隔であらゆるサービスをお願いしつつ、私は、近い将来訪れるその日のため、緩和ケアを実施している病院に予約を入れていた。
父はガンに負ける気などさらさらなく、その病院の説明が難しい。
「一人暮らしがきつくなった時に、入院できるよう手配してあるからね。お父さんの希望を聞きながら治療できるんだよ。」
「わかった」と言いつつ、多分父も察していただろう。
6月に入ってすぐ、父が辛そうだとケアマネージャーさんから連絡が入った。
「私が行くから、入院しようか?」と問うと、「ん。頼む。」と電話の向こうで少しほっとした声がした。
入院の調整をし、自分の仕事や家庭の調整をし、入院日を決めて故郷へ向かった。
父の着替えを手伝い、母の写真に手を合わせ、荷物を持ち、戸締りをする。
呼んでいたタクシーが家の前に着いた。
靴を履き玄関を出る時、父が振り返って、ゆっくりと家の中を見渡している。
もう帰ってくることはないこの場所を、目に焼き付けるように。
タクシーは青々とした田んぼの続く道を進んでいく。青田波が美しい。
まるで花のように白い袋がかかったビワの木が遠くに見える。
「父は死なない」と思っていたけれど、もう二度と、一緒にこの景色を見ることはできないのだ。
「また今度」や「帰ったら」や「治ったら」といったフレーズが使えず、言葉が見つからない。
「ビワが豊作の年は、作物が豊作なんだそうですよ。」と、タクシーの運転手さんが話しかけてくる。
口を開くと涙が出そうになるのを必死にこらえる。
「お父さん、ビワが豊作の年は、作物が豊作なんだってさ。今年は豊作だね。」
病院までの1時間ほどの間に、おんなじ言葉を3回くらい繰り返した。
父の日は、ビワと青田波の季節で、毎年あの時の景色を思い出している。
今週のお題「おとうさん」
ほんさき
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