まだ、認知症が「痴呆」と呼ばれていた頃、精神科の「老人性痴呆病棟」に勤務していた。
もちろん介護保険制度の生まれる前。呼び名も違えば、対処もまるで違っていた。
その病棟では、机とイスが並ぶ、だだっ広く妙に明るい空間で、日中60人が過ごしていた。
そのホールと、ベッドのある病室スペースは分断されていて、日中は強制的に全員ホールに出て、自分のベッドには戻れない(昼寝以外)。
「ベッドに寝かせてばかりで刺激がない」、「日中傾眠傾向で昼夜逆転する」といった問題点を解決し、残っている心身の機能を活かす取組みとして、「画期的だ」と見学者も来ていた。
「痴呆」が「認知症」と呼ばれるようになり、ケアの研究も進み、新たな職場で「認知症の人は広い空間は不安になりやすい」とか、「少人数だったり、自分のペースで過ごせるほうが良い」といった話を耳にした。
あの「画期的」な病棟は、認知症の人にとって、むしろ酷な場所だったのかと思った。
あの頃、全くの異業種から飛び込んだ私は、事前の知識もなく、病棟にあるテキストを読みながら、先輩に仕事を教えてもらいながら、見よう見まねで介護していた。
それぞれ個性的な60人に愛情を持っていたし、自分なりに懸命に働いてきたつもりだったけれど、自分の無知のために、かえって皆さんに辛い思いをさせてしまったという懺悔の気持ちは、今も心に影を落とす。
60人の中には、認知症というより、精神疾患で長期入院したまま高齢となり、一般病棟にはいられなくなった人も随分含まれていた。
病状によって転棟もあるので、60人は時々少しずつ入れ替わる。
ある時、Eさんが入院された。小柄で人懐っこい笑顔の男性だった。
一人暮らし。認知症で、身体は元気なのであちこち行って、帰り道がわからなくなる。
娘2人はそれぞれ家庭の事情で同居できない。
本人は、病気だなんて思っていないので、検査入院として来られた。
Eさんが看護師と話をしている隙に、付き添いの娘さん2人は、何度も振り返りながらこっそり帰られた。
ここがどこなのか、どうしてここにいるのかわからないまま、Eさんは職員に促され夕食を取り、ベッドで休まれた。
Eさんは、周りの人や職員の様子から、保養所のようなところに来ていると、自分を納得させているようだった。
娘さんと来たことを忘れ、鍵のかかった2重扉の外に出せ!と騒ぐこともない日々が続いた。
しばらくして、Eさんの顔から笑顔が消え、不安そうに詰所の前をウロウロされるようになった。
「Eさん。どうされました?」と声をかけると、眉間にしわを寄せて
「わしは、実はお金を持っておらんのです。」と小声で話される。
「ここは無料なんですよ~。心配いりませんよ~。」と答えても、「あぁそうね~ありがたいね~。」と言った5分後には、ウロウロ。
「わしは、実はお金を持っておらんのです。」それはそれは不安そうで、辛そうだった。
「Eさん、実はね、娘さんが、もう払ってくださってるんですよ。」と答えてみた。
「えっ娘がですか?」
「そう、〇子さん。そう言えば、〇子さんってEさんがお名前考えたんですよね。7月生まれなんですよね。もう一人は△美さんでしたよね。」
「あんた、よく知ってるな~。そう、〇子が生まれた時になぁ、名前3日悩んでなぁ・・」
ニコニコ笑顔で席に戻り、でもやっぱり5分後にはウロウロ。
そして、繰り返されるやり取り。
「あんた、よく知ってるな~。(^-^)」
「Eさんが話してくれましたよ。3日悩んで・・。」
「そうだったかな?あんた、よく知ってるな~。(^-^)」
・・繰り返し。
他の職員も含め、可能な限り娘さんの話をした。
多分、服用していた薬の効果も出てきたのだと思うけれど、少しずつ笑顔が戻ってきた。
Eさんの中で、ここが何かはわからないけれど、さっき職員がなんて言ったかは忘れ、聞きに行ったことすら忘れたけれど、
やり取りで安心感を得て、繰り返され、心に積もって、なんとなく「ここにいても大丈夫」な、ニコニコできる関係が生まれたように私は思った。
認知症の人は物事を忘れていく。
さっき食べた食事のメニュー、食事をとったという事実さえ。
やがては家族の名前、家族がいるということも。
でも、当たり前で、見逃されがちだけれど、物事を忘れても常に感情は生まれる。
日々の感情の積み重ね、心に積もり続いていく感情が、日々をつくり、生きている時間そのものとなると私は思った。
その感情を生み出したものが、「なにであったか」は忘れても。
Eさんは、それでも時々小声で相談に来られたけれど、大好きな娘さんの話に頬を緩ませて、穏やかに過ごされているように見えた。
懺悔の気持ちはありつつも、Eさんとのやり取りは、温かな思い出として残っている。
ほんさき
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