子どもの頃、年に1回は、台風が故郷を通り過ぎていった。
雨戸を閉め、停電になると(ほぼ100%停電する)ロウソクの灯りで食事をし、怖さよりも非日常のワクワク感が勝って、はしゃいでは叱られていた。
台風が通り過ぎた翌朝、雨戸を開けると、そこはちょっとした別世界。
草がなぎ倒され、家の前にトタンの端っきれや、どこかのバケツ。ある時は、誰かの小さな冷蔵庫が転がっていたことも。
非日常の翌日は、いつも通りに起きても、ドキドキしながら雨戸を開けることから始まって、なかなか小学校にいく準備が進まず、これまたよく叱られたものだった。
片道40分の自転車通学だった高校生の頃、台風の翌日、いつも通り朝課外授業に向かっていると、細い田舎道を何かがふさいでいる。
どこかの小屋の屋根が、そのまま道の上に。
この道を通らずに、どうやって高校へいったらいいのか?
遠くに同じ高校の生徒の自転車を見かけ、慌てて追いかけて、ギリギリ学校に駆け込んだ。
非日常の当日はハプニングが起こり、翌日は「ハプニングが起こったままになっている」と考えて、時間に余裕を持った方がいいのだなと実感した。
実家を出て、台風に遭遇することも減った。
停電になっても短時間になり、やがてちょっとやそっとの台風では、家の中では全く変わりなく生活できるようになった。
近所も色々片付いているので、飛んでくるものもない。
もし何か飛んできていたらワクワクどころか「めんどくさいな」と思うようになったのは、それなりに大人になったということだろう。
子どもの頃と比べれば、今は台風情報の精度が格段にあがり、交通の乱れも停電も少ないし、復旧も早い(そりゃぁウン十年前ですし)。
あらゆる情報を、スマホで手軽に手に入れることができ、人の力では致し方ない自然のパワーにも、振り回されることが随分減ったように感じる。
電車の遅れは、スマホにすぐに通知が来る。関連ツイートを開けば、多くの人が情報を書き込んでいて、状況がわかりやすくて助かる。
でも、「また遅れてる。しっかりしろよ(怒)」「〇〇線遅れのせいで遅刻するじゃないか(怒)」といった類の書き込みも多くて驚く。
特に台風の後は、線路や電線、車両の点検などなど、安全に運転するために必要なこともあるだろう。
便利になったがゆえに、スムーズに事が運ばないことに対しての耐性がなくなってきているのかと感じる時がある。
非日常の翌日も、交通機関は遅れる可能性があるし、道路は混む可能性が大きい。
駅の自転車置き場だって、昨日乗って帰れなかった自転車で、いつもの場所には停められないかもしれない。
非日常の翌日も、いつもどおりに事が運ばない可能性が残っていると考えて、時間に余裕を持って動いたほうが、無駄にイライラしなくて済むと思う。
台風が通過したのに電気がつくこと、電車が安全に動くことなど、多くの人たちの努力が陰にあってこそと、感謝できる余裕を持ちたい。
非日常の当日は、「気をつけなくちゃ」と思っているので、そこまで失敗しないけれど、その翌日も意外と時間に余裕が必要だ。
珍しく夫婦でお出かけなど行った(非日常)ので、翌日いつものバッグに家のカギが入っていなくて、出勤前にバタバタ探して、遅刻するかと思ったわ。
ほんさき