夫が、「たたき台」を作って、会議に持って行かなきゃならなかったらしい。
昨夜は、推敲しているうちに、文章がへんてこりんになったらしく、「あー」とか「うー」とか言っていた。
「『たたき台』なんだから、『叩かれてなんぼ』なんだから、ざくっと伝えたいこと伝わればいいんじゃない?」
なんて言ってみても、几帳面で慎重派の夫は、それがイヤな性質。
でもさ、あんまり根詰めてたたき台作ると、「たたき台を叩くと怒る人」になっちゃうと思うんだよね。
たたき台を叩くと怒る人
たたきだい【叩き台】
よりよい成案をめざして意見や批判によって練り上げてゆくための、もとになる案。試案。 (引用:三省堂 大辞林 第三版)
私は、たたき台は「叩くためにある」と思っているのだけれど、時々「叩くと怒る人」に遭遇してきた。
例えば同時期にPTA役員でご一緒したお母さん、
ちょっと前の職場の後輩くん、
少年野球の保護者会のボスママ・・・。
恒例の行事でも、新しい取り組みでも、みんなで何か事をなす前には、
「まず、『たたき台(大まかなプラン)』を担当が作って、みんなで一度集まって話し合おうね。」
と決まるのだけど、
「叩くと怒る人」の傾向は似かよっていて、大抵、「たたき台」がなっかなか出てこない。
「そろそろ動かないと、間に合わないんじゃない?」と周りが不安になる頃、なかなかに「ビシッ」としたモノが出来上がってくる。
そして話し合いの中で、
「ここは、コレコレが問題かもしれないから、こうした方がいいんじゃない?」
なんて言おうもんなら、プリプリ怒り出す(若しくは泣き出す)のだ。
「みんなで話し合って、いいもの作ろう!」
って言いながら、意見を言うと怒る(泣く)人たち。
「私は『たたき台』じゃなくて、完璧なプラン作ったから、これで行く!責任は私が取る!」
なんて言うワンマンな方が、よっぽどマシだわ~と私は思っていた。
責任は取りたくない。
責任を「みんな」に分散させるため、「みんな」で話し合った結果としたい。
でも、色々言われたくないから頑張って作っちゃったソレは、もはや「たたき台」じゃないから、
叩かれたら自分自身を否定されたと感じて怒る(泣く)のだろう。多分。
相手は「完成形のようなものを叩くのは気が引けるわ~」と思いつつ意見を言うので、ストレスだし、
怒られたり泣かれたりして意見を言えなくて、でも「話し合った結果」として責任の一端を背負わされるのもストレス。
夫よ、やっぱり「たたき台」は、速やかに、ざくっと大雑把に、伝えたいことまとまってたらいいんじゃない?と思うんだよね。
たたき台を殴る人
一方で、「叩きかた」にもマナーは必要だなと思うような「たたき台を殴る人」にも遭遇してきた。
例えば、過去にPTA役員だったOB的お母さん、
ちょっと前の職場にいた「形だけ決裁必要」な『顧問』的おじさん、
少年野球の保護者会のボスママと対立しているネクストボスママ・・・。
この「たたき台を殴る人」の存在が、「たたき台を叩くと怒る人」が生まれる原因だったりする。
「殴る人」の傾向は似かよっていて、
「昨年はもっとちゃんと計画した」だの
「ここら辺のツメが甘い」だの
「じゃあ、これとかこれはどうするつもりなんですか?」だの
もはや、「自分の存在意義を確かめるためにイチャモンつけている」としか感じられない、重箱の隅をつつくような「ご意見」を出すのだ。
たたき台は大雑把なんだから、まだ計画詰めてないし、どうするのかみんなで考えるために「叩いてる」ハズなのに、
話し合いの場で優位に立てること、
相手に責任を負わせること、
自分が「さすが~」って思われることに目がいって、不毛な意見を言ってしまうのだろう。多分。
たたき台を叩くのは「一緒に良いもの作りあげる」ため
たたき台は叩かれてこそ。そして叩くのは「一緒に良いもの作りあげる」ため。
職場でも、PTAでも自治会でも、どんなささやかな集団でも。
この意識の共有がなければ、話し合いは意地の張り合いで、ケンカになってしまうと思うんだよね。
年々思考が固くなって、ともすれば「殴る人」になる恐れのある、自分への自戒を込めて。
ほんさき
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