自分でもつくづく思う。私はしつこいタチだと。まぁ、よく言えば「一途」。
今年も残すところ2ヶ月を切ったと言うのに、今年初めに放送されたドラマ「初めて恋をした日に読む話」をまだ観ている。
Paravi(パラビ) で隙間時間にちょこちょこと観て、最終話を観て、また1話に戻る。
「何度観ても、グッとくるんだからいいじゃん。」と、どこかに言い訳しながら。
初めて恋をした日に読む話:第4話
このドラマは、アラサーしくじり塾講師が不良高校生の東大受験に向けて二人三脚で頑張る設定の中に、色々とその他の大人たちの恋模様も入る、表向きはラブコメ。なのだけれど、回ごとに裏(?)テーマがある。(と、私は思っている。)
第4話のテーマは「幸せについて」(・・・だと思う。)
ある日の塾の講義は、イギリスの功利主義者「ベンサム」について。
ベンサムは「最大多数の最大幸福」を唱えた人。
簡単に言うと「(貴族や権力者だけじゃなく)一人一人の個人が幸福になることが、国家の幸福度を高める」という意味。
ベンサムは「快楽と苦痛を計算して、幸せを測れる」と言った。
・・・正直、私は存じませんでした(;'∀')
BARでは、主人公が「あ~幸せって何なんだろう~」と悩み、
一見幸せそうに見える元ヤン同級生は「幸せが何かなんて、幸せな時は考えないからな」 と名言を残す。
色々と「設定に無理あるか?」とツッコミどころもありつつ話は進むのだけれど、
不良高校生が(その高校生の)家庭の事情を気にかけてしまう主人公に、伝える言葉が好きなのだ。
「俺、今、別に かわいそうじゃねえから。」
「勉強つらい時とかもあるけど、不幸じゃない。」
「苦痛と不幸は違うだろ。ベンサムってヤツ間違ってんじゃね?」
「斜視が治る」と寄ってくる人たち
私は先天性の内斜視があり、見た目も良くないし、見え方でちょこっと困ることもある。
そして、この見た目から結構「不幸」に見えるらしい。
若い頃は、昼休みに公園で休憩していると、よく声をかけられてしまっていた。
「あなたのかわいそうな目を治せる」とかいうハンドパワー持ち。
「その目は、前世の悪い行いのせい」だとか「先祖が悪いことをした」とかいう時空を超えたヤツ。
「あなたの血を清めることで、不幸ではなくなる」とかいう遠隔で透析できる(?)スペシャリスト。
それは、アラフィフになる今まで、ありとあらゆる出会いの中で、しばしば繰り返される。
出会った時のその人の目を見ると、大体わかる。
私を見てギョッとし、瞳に憐れみを浮かべた後、
親切を押し売れるカモを見つけた喜びに輝き、
「いつその話に持って行こうか」と思考が飛び、こちらの話は上の空になる。
いつもいつもそんなお節介な宗教家に出会う度、「気持ち悪い」と言われるよりも傷つくのだ。
私の目が変なのは「偶然」でしかない。
そりゃまあ、もしかしたら、母が病弱とか高齢出産だったとか、あるかもしれないけれど、それよりも早期に治療できなかったことが大きいし、それは仕方のないこと。
帝王切開だったせいでも、粉ミルクオンリーで育ったせいでもない。
ましてや、摩訶不思議な世界の影響でもないし、血を入れ替えたって眼の筋肉がどうこうなるわけない。
そして、それよりも何よりも、私はいつもこう思い、お節介な宗教家にお引き取り願っている。
「今、別に かわいそうじゃねえから。」
割と今幸せなんだけど
幸い生活出来るレベルで見えているので、障碍者手帳を取得する資格はなく、線を引けば「健常者」。
でも、普通に見えている人と比べれば、できないことが多い。他の何かを精一杯頑張って補って生きる。
優しい人たちに支えられ、斜視だからこそ得られることもあっただろうけれど「斜視で良かった」なんて微塵も思っていない。
大雨の中、駅まで夫や子どもを送っていくこともできず見送る朝、
受付で怪訝そうな患者さんの目にさらされる時、辛いと思う時もある。
それでも、だ。
私の斜視は不快で不幸に見えるだろうけれど、別に私は不幸じゃない。
目に限らず、嫌なことはいっぱいあったけど、もう、随分乗り越えてきた。
これからも辛いことがどれほどあるかわからないけれど、やっぱり苦痛と不幸は違うのだ。うん。やっぱり「ベンサムってヤツ間違ってんじゃね?」
ちょっと植えるのが遅くなったフリージアの球根も無事に芽を出した。
とりあえず家族は健康で、贅沢しなければ食事の用意に当面お金の心配はなく(メニューは毎回悩むけどね)、ほそぼそと仕事も続けられている。
自分を大切に思ってくれて、そして自分が大切と思える人たちと共に頑張れる時間がある。
だから、ゆりゆりの言う通り「割と今幸せなんだけど」。
ほんさき
↓ にほんブログ村に参加しています。
★こんな記事も書いています★