地味にシリーズ化していた「離れて暮らす実親の介護」だけれど、「私が書く意味って何だろう」と迷っていた。
私が介護していたのはちょこっと前の話で、今や介護についての情報やブログ記事は有意義なものが沢山ある。
私が書けることは「関係があまり良くない実親の介護」を「何とかやってみた話」かもしれない。
辛くなったらサッサと帰る
私が両親の介護のキーパーソンとなり、しばしば帰省するようになってから、母とはよくケンカしていた。
ケンカと言うより、母の言葉があまりに無神経に思えて、私が一方的にブチ切れかけていた。
例えばある時。通院付き添いやらなんやらで呼び出されて帰省する。
職場に頭を下げ、私がいない間の食事を用意し、夫に子どもの送り迎えを頼み、義母にはちょこっと嫌みを言われながら、1泊で故郷に帰る。
「台所の電球がつかないのよ」と言うから、買い物ついでに探して付け替えたけれど、
「あらヤだ。こんな色じゃないわよ!」と母は平気で言う。
「田舎のホームセンターにはなかなかない商品なのよ。暖色系だとわかってたけど、白しかなかったの。つかないよりいいじゃん。」
「あーぁ、ヤだわ。変な色だわ。」
母は何度も何度もぼやく。
「あぁそうだね。お兄ちゃんに頼みなよ。どうせあの人は来ないけどね。」
意地悪を言ってしまうと、母は言うのだ。
「お兄ちゃんは、仕事があるのよ。」
おいおいおいおい。
私だって、仕事があるんだよ。家事も育児もあるんだよ!
ねぇ、私がここに来るのが、どんなに大変だかわからない?
ねぇ、いつもどんな思いで、どんなに頑張ってここに来てると思ってんの?
ねぇ、どうしていつもいつも、私の気持ちを踏みにじるのよ!
怒鳴りつけてしまいたい衝動にかられるけれど、目の前にいるのは怖かった母ではなく、小さくて白くて弱々しい女性。守るべき人。
怒鳴りつけたら何だか弱い者いじめみたいで、ぐっと気持ちを抑える。
そんな日々だった。
言葉を飲み込み過ぎて「もう耐えられない」と思った時は、最低限のことを済ませてサッサと帰った。
指定席をとっていた特急電車にはまだ随分余裕があるのに「電車の時間があるから」と逃げるように実家を後にした。
ちょこっと後ろめたくて、「ギリギリまでいてあげるべきだ」という、自分の中の偉そうな部分が自分を責めるのだけど、もう限界。
親不孝者でもいい。ここで無理して自分が壊れたら逆に親不孝なんだから。
子どもが幸せでいることが、究極の「親孝行」なんだから。
母について書くとカテゴリーが矛盾する~復讐のつもりが親孝行 - 小石の眼から見た景色 あらかた50主婦のあったこと録
娘から母へ変身する隙間時間を大切に過ごす
故郷から帰る特急電車は、その頃の私にとって、娘から母へ変身する場所だった。
海の見える側の席に座り「お疲れ様」と自分をねぎらう。
ちょっと高いけど、その時だけは社内販売のホットコーヒーを買う。
故郷では、病院の付き添いも、ケアマネさんとの打合せも、お世話になっているご近所へのご挨拶も、しっかり者の娘の顔でこなし、
ぐずぐず言う母や、デイケアをサボりがちな父に、「ちゃんとしなきゃ」とお説教もする。
そして、車窓から海が見えなくなってしばらくしたら、母親の顔に戻らなくては。
ニコニコ笑って「1日会えなくてさびしかったよ~」と抱きしめて、子どもたちの好きなおかずを作らなきゃ。
だから少しの間、娘から母へ変身する隙間の時間、ちょこっとぼんやりする。
あんな言い方ってないよな。
なんだってんだよな。
庭の草取りもしなきゃだったのにな。
電球の色くらいスルーしてもよかったかな。
だけどひどいよな。やってらんないよな。
でもさ、あと何回会えるかな。
海を見ながら、ポロポロ涙をこぼすことを、自分に許す。
自分が一番笑顔でいられる選択肢を選ぶ
親との関係がどんなに良好でも、介護はしんどい部分がある。
ましてや、複雑な思いを抱えながら、守るべき者となった親と向き合うのは、なかなかにしんどい。
過去を思い出して向き合うのが辛い時も、
冷たいことを言ってしまって後悔する日も、
「あぁやっぱりな」って親に何度も失望する時もある。
だから、時には自分で自分を甘やかして、自分を許す時間を作って、何とか乗り切る。
そして「どうしようかな」と選択に迷う時、「自分が一番笑顔でいられる選択肢」を選んでいくのが、結局一番いいんだと信じて選ぶ。
順番では自分が残されるのだから。残された後も自分の人生が続くのだから。
ほんさき
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