小石の眼から見た景色 あらかた50主婦のあったこと録

その辺に転がっている小石のあれこれ体験録です。

性的虐待被害者だった私は顔を上げて生きるのさ~『罪』はそいつらだけにある

今回は、タイトルから推測されるとおり、重さも暗さもある長い話(約4600文字)です。苦手な方はスルーでお願いします。

前回「アラフィフおばちゃんの恋バナなんて、一体どんな需要があるんだ?」と思いつつ記事を書いたのですが、
温かいコメントをたくさんいただきました。いつも、ありがとうございます。

www.honsaki.com

 ちょっくら恥ずかしいなと思いながら、そんな高校時代の思い出を記事にしたのは、今回の記事を書きたかったから。 

信じられない「判決」を目にする

ご存知の方が多いと思いますが、その信じられないような判決を目にしたのは、約1年前。 
実の娘への性的暴行の罪に問われ、事実を認めたにも関わらず、その父親は一審で「無罪」だったのです。(2019年10月に控訴審が始まっています。)

www.nhk.or.jp

 「そんなことが、あっていいものか!」と憤る気持ち、そして嫌でも色々と思い出し、考え込んでしまい、
ブログに書きたいと考えながらも、何だか吐くような思いで書いては消しを繰り返し、
こんな時期のズレた記事公開になってしまいました。

 

 この「無罪判決」を冷静にみれば、「現在の司法では罪を問えない」ということであって、その行為が「許される」ではないのです。

無罪と判断された理由は「抗拒不能」。
「必ずしも抵抗できない状態だったとは認められない」と判断されたためです。

けれど、私には、「司法制度の問題」と、そう簡単には受け止められませんでした。

「もしも、子どもの頃の自分が目にすれば『勇気を出して声を上げても、やっぱり無駄なんだな』と絶望しただろうな」
と思ったし、
「『なんとか声をあげて、助けを求めよう』と、今まさに思っている人たちが、人生を諦めてしまいそうだ」
と思いました。

大体、そもそも、「抵抗できない状態だったとは認められない」って何?
命がけで抵抗しなかったように(裁判官からは)見える、被害者側に非があるとでも?

やっぱり、私は思うのです。
子や姉妹(兄弟)を性的対象とみなした時点で 『罪』はそいつらだけにあると。
「抵抗していないように感じた」としても、「同意したように感じた」としても、
もはや性的対象とみなした時点で『罪』だよ!と。 

「私の心に傷をつけるものは何か?」を考える

他の虐待と同様に、性的虐待被害者の中には、長く続く後遺症に苦しみ、ごく普通の生活を送ることさえ困難な人や
心を病み、苦しみの中で生きている人も沢山います。

そして、私のように、たまたま健康で平和に生活し、一見「何の悩みもない、何の苦労も知らない」ように見られる人もいます。

両者の間には、出会う人やタイミングや様々な「偶然」しか差はなく、どちらが正しいというものではないと私は思っています。 

平和に生きている私ですが、心に傷をつけることは多々ありました。

「ありえない」の壁

さて、私が無事大学生になり、しばらく経った頃。
女性が少なかったこともあり、とある先輩からお付き合いを求められたことがありました。 

「これはお伝えした方がいいのだ」と、真面目そうな先輩に性的虐待の話をしたのです。

初めて、勇気を振り絞って他人に打ち明けた、その時の彼の言葉は
「小さい子どもでも、かんじるの?」でした。

今思えば、いくら先輩とはいえ20代前半の大学生に、いきなりその告白は荷が重過ぎで、申し訳ない気もしますが、
お付き合いは、速攻でお断りさせていただいたのでした。 

やはり、人に話すものではないな。異常な性癖のように興味を示されるだけで、無駄に傷つくし。
こんな「ありえない」こと、理解してくれる人間などいないのだな。と改めて悟ったのでした。 

きっと、小学生の頃から、教師に話しても、友達に話しても、「ありえない」の壁に閉ざされて孤独を感じるだけだったでしょう。

母親にすら「ありえない」と閉ざされてしまったのですから。

「家族愛」の幻想

小学生の頃は、長兄が宿泊体験等で不在の日が嬉しくて嬉しくて。
何も恐れず、ゆっくり眠られる日。
怖いことは何も起こらないとはっきり確約されている日。

嬉しさが漏れ出ているのが、同級生にバレて、
「お兄さんがいないのを喜ぶなんて、ひどい人」と言われてしまったのでした。

似たようなことは、いつもどこでも存在しました。

私は、世間には「家族愛」の幻想があると思うのです。
家族ならば、何があっても、助け合い愛し合えるものだという幻想が。 
そこから逸脱した感情を持つ、長兄に憎しみと憎悪を持つ自分を、自分でひたすら否定する日々でした。

母は私が訴える長兄からの性暴力を「なかったこと」にし、やがて忘れてしまったのか、
「兄妹仲良く」だの「お兄ちゃんに(誰もくれないから)バレンタインのチョコをあげて」だの言うのです。

私は、作文で「仲の良い家族」なんて嘘っぱちを書いて、賞をもらい、
「あぁやはり、家族を愛せていない私は、おかしい、ひどい人間に違いない」なんて思っていたのでした。

 「貞操観念」の呪い 

ひどい暴力的な虐待を受けて亡くなった子どもの話は、辛くて胸が痛みます。
多くの人々も、その子の死を悼みます。

「どうして逃げなかったのか」「自分の身を守るべきだ」「黙ってされるままは暴力に同意している」なんて言われることがあるでしょうか?

でも、性的虐待を受けた人に対し、時に人は言うのです。
「なぜ逃げなかったのか」「抵抗できたのではないか」「貞操を守るため、家を出るでもなんでもするべきだったのだ」
「自分の生活がいくら困難になっても逃げるべきだった」

なぜでしょう。
性的虐待では、命まで取られないから?生きているから?その後頑張れば普通に生きられるからでしょうか。

法の注釈書『注釈刑法』(初版は1960年代)には、
“些細な暴行・脅迫にたやすく屈する貞操の如きは刑法の強かん規定の条文で保護されるに値しない” とあります。

なにさま的な上からの立ち位置で、ご立派な貞操観念を振りかざされて、被害者は自分にも非があり、「屈した自分は汚れてしまっているのだ」と、さらに苦しむのです。

「加害者を有罪とし、罰を与えられれば解決」ではない

もし、仮に、法改正が行われ、法的に罪であると認められ、あの裁判の父親に罰を与えることができたとしても、
矛盾していますが、それで解決とは、私は思っていないのです。

被害者と加害者が家族である場合の「解決」は何だろうかと思うのです。

 

加害者を罰することができるようになったとして、自分の家族は「犯罪者の家族」になってしまう。
それは、子どもにとって、あまりにも恐ろしいことです。

私もそうでしたが、現状を打破した先に、「自分の幸せ」があるかなんて、全くわからないのです。

その先に希望があるとも思えないのに、現状を打ち崩す勇気は、そうそう持てるものではないと思います。

「自分さえ我慢すれば、平和に暮らせる」と思ってしまうのです。辛くても「平穏」な暮らしができると。

それが「偽りの平和」だなんて、後からわかるもの。
「自分を大切にしてこそ、自分の幸せがつかめる」なんて、そんな思考自体存在しないのです。
自分を大切にすることなどわからないのです。大切にされていないのだから。

現状が変わる(予測不能である)ことへの不安。
もっと悪い状態になるのではないか?
家族が犯罪者となり、自分の被害も学校や友人(=子どもにとっては全世界)に知られ、
生活は困窮し、母親は苦悩し、親から今以上に嫌われるかもしれないといった数々の不安。

解決は、子どもが安心して暮らせる家庭で生活できるようになること。だと思うのです。これは、どの虐待にも言えることではありますが。

性的虐待被害者を救うため、新たに出さないため

先に挙げた「クローズアップ現代+」の終盤で、弁護士の宮田さんが言われていることが、私も重要だと思っています。(もちろん、法改正も必要だとは思いますが。)
それは、被害者支援・性教育の充実(子どもにも、大人にも)・加害者の更生支援

身近に起こりうることなのだと、多くの人に知ってほしい。
「『ありえない』の壁」を取り払ってもらえたら、もっと被害を早いうちに訴え、聞いてもらえるかもしれない。

 家族とはいえ、個々は弱い人間の集まりだから、訴えを聞いた人は「『家族愛』の幻想」から、勇気を出して現実に目を向けてほしい。
まずは、多くは母親が。

どうすればいいかわからず、ただ目を背けてしまうのかもしれない。
そんな人を責めるのではなく、どこに相談すればいいのか、どんな解決策があるのか知らせてほしい。
加害者も家族だからこそ、更生支援があればと、確かに思うのです。

そして、男も女も早い時期から段階的に、きちんと性教育を受けさせてほしい。
もし被害に遭っていたら、自分のされていることは「NO」と言って良いし、相談して助けてもらうことなのだとわかるように。 

顔を上げて生きることで、勝手にエールを送る 

私は、ブログを書いて、勝手にエールを送っているつもり。 

www.honsaki.com 残念なことに、心無いことを言う人は、どこにでも必ず存在します。

例えば、子どもの頃に不幸にも火事にあい、大きな火傷の跡が残った人がいて、
その人の火傷の跡が「汚い」なんて、言ってしまう人間はやっぱり存在します。

でも、「なんてこと言うんだ!汚くなんかない!」と、多くの人が思ってくれるのも確か。

子や姉妹(兄弟)を性的対象とみなした時点で 『罪』はそいつらだけにあるのに、
眉根を寄せて「汚らわしい」と言う人間も、少なからず存在します。

でも、先日の記事のブコメで「汚れてなんかない」って言ってくださった猫pさんみたいな人も沢山います。(嬉しかったです。ありがとう(^▽^)/)

そして、私は被害者を「汚らわしい」と言うその人たちに言おう。

「そんなことを言う、あなたの心が汚れているのだ。」と。

  

性的虐待被害に遭った「私たち」と、遭わずに生きてきた多くの「あなた」。両者に大きな違いはありません。

たまたま偶然「私」は、そんな家庭に生まれ、
たまたま偶然「あなた」は、そんな家庭に生まれなかっただけ。

たまたま「私」は、そんな兄が先に産まれていただけ。
たまたま「私」が女性で、
「あなた」は、たまたま男性に産まれていたというだけかもしれない。

生まれてくる時に選ぶことなどできない。
被虐待者には何の落ち度もない。
ましてや、前世なんかのせいでもない。(こういうことを言う人は「おとといきやがれお越しくださいませ」だわよヽ(`Д´)ノ)

不幸にして被害を受けた傷は確かに存在していても、だからと言って、その傷は汚れてなどいないと、しぶとく生きてきて、今、思えるのです。 

私は何も悪くない。だから、私は顔を上げて生きるのさ。 

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 立春が過ぎると、気温は低くても、空が少しずつ明るく春めいて感じます。

傷ついたことがあったとしても、心はちゃんと動いていて、春めく空や風、草花にわくわくとトキメクことができます。

ただ生きているだけだけど、私が今、顔を上げて笑って暮らしていることで、同じように何とか生き抜いてきた人たちへ、勝手にエールを送っています。  

ほんさき

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