子どもの頃、両親が観ていた隣で時代劇をよく観ていた。
「水戸黄門」も、「大岡越前」も、「遠山の金さん」も好きだったけれど、私は断然「暴れん坊将軍」が好きだった。
悪い奴らを「成敗」できる痛快さ
「暴れん坊将軍」と書くだけで、あのオープニング曲が耳に蘇り、白馬に乗った松平健が目に浮かぶ。
水戸黄門の「助さん」も「弥七」もカッコ良かったし、大岡越前のクールで知的なところも素敵だと思っていたけれど、
「貧乏旗本の三男坊」だと偽って江戸の街に紛れ込む、実は8代将軍「徳川吉宗」という設定は強かった。
当時の社会の中で、問答無用で一番偉い。だけど優しくて、そして強い。おまけに男前!!
水戸黄門の「印籠」の紋所に、悪い奴らは「ははぁぁぁーーっ」 と頭を下げるけれど、
時々「うおりゃー!」とやけくそになって反逆する輩もいる。それでも基本的には「峰打ち」だ。
けれど、「暴れん坊将軍」の「新さん」は、なにしろ「上様(=将軍様)」なのだ。
一番あくどい、胸糞悪いヤツは、上様の「成敗!」の一言で、お庭番に成敗される。
心正しい、一番偉い人が、一部始終を理解してくれて、「裁き」などすっとばして成敗してくれる痛快さ。
以前の時代劇は 勧善懲悪。
善悪がはっきりしていて、観ていてスッキリするものだったけれど、「暴れん坊将軍」はその中でも格別だった。
自分の中の「暴れん坊将軍」
子どもの頃から薄々感じてはいたけれど、私の中には「暴れん坊将軍」がいる。
何かあると、シロかクロか、「正しい」か「正しくない」かで判断し、正しくなければ「成敗」しようとしてしまう感情がある。
そして、その感情は、他人だけでなく自分自身にも向く。
小学生の頃、好きだった先生が「間違いに対して厳し過ぎる面がある」と危惧してくださっていたのは、きっとこのことなのだろう。
例えば、ある日、夫(結婚前)とデート中のこと。
青信号になり、渡ろうとした時、やんちゃ風な車がギリギリのタイミング(完全に赤信号!!)で通り過ぎた。
「スピードを緩めずに交差点に近づいてるな~」と思いつつも、しっかり車にガンを飛ばしながら渡ろうとしていた私を、夫が大慌てで止めてくれた。
しかし、私の中の「暴れん坊将軍」はブチ切れていた。
私「はぁ?悪いのはアイツらでしょっ!! 」
私「事故起こして、警察にとっ捕まったらいいのよ!!」
夫「あのね、アイツらが悪いけど、ぶつかったらあなたが負けるから。怪我するでしょう(;´・ω・)」
夫「車とはケンカしないでくれる?(;´・ω・)」
夫の言う事は、いちいち全て、ごもっともだったのに、それでも私はプリプリ怒っていた。(こんなのと、よく結婚しようと思ったわねぇ・・。)
若い頃は特に、一事が万事、結構こんな調子。
私の中の「暴れん坊将軍」は、いわゆる「融通の利かないヤツ」でもある。
でも、心の中で、「そんな自分が嫌いじゃない」と思っている自分もいた。
J先生の言葉
「正しさ」にこだわろうとする私は、相当危なっかしかったのだろう。
学生時代に大変お世話になった先生に、言われたことがある。
「ほんさきさん。
『世の中の人が、皆、自分みたいな人間だったら良いのに』と思うでしょう?」
「『悪いことしたり、ズルしたり、怠けたりしないで、正しく生きる人ばかりだったら良いのに』と思うんじゃないですか?」
「でも、その考えは、怖いですよ。」
www.honsaki.com 先生に、せっかく笑顔でそう言っていただいたのに、その時はちっともわからなくて、
何だか非難されている気がして黙り込んでいた。
「あぁ、そう思ってるよ。そう思って何が悪い?
悪事を働いて人を傷つける人間や、
自分が楽するためにズルしたり、怠けたり
人を陥れる人間などいなくて、
誰もが『正しく』生きようとしていれば、
世の中もっと平和で生きやすく、
人は皆幸せなんじゃないの?」
と内心思いながら。
「Nobody Is Right」現代に上様はいない
中島みゆきさんの 「Nobody Is Right」という歌がある。
私の中の「暴れん坊将軍」は、その歌詞に思い切り平手打ちをくらった。
T先生が心配してくださった事、
J先生のおっしゃりたかった事は、こういうことかもしれなかった。
アルバム「前途」には、Liner Notes が付いている。
その「Nobody Is Right」の部分の一部を引用させていただく。
・・・
人間には無限ともいえる数の「正しい」がある。「俺は正しい」が故に「俺から見れば正しくない」ものに対してのどんな攻撃も正当化されるなら、人類には戦争世界しか残らない。
・・・アルバム「前途」Liner Notes:中島みゆき
私が「正しさ」にこだわり、ともすれば「成敗」しようとしていたのは、抱えていた鬱屈や不満を、ただぶちまけたかっただけなのだ。
『争う人は、正しさを説く』と、みゆきさんは歌っている。
『その正しさは気分がいいか
正しさの勝利が気分いいのじゃないのか』と。
私は、ただ「成敗」し、「勝利」したかっただけ。「私から見れば正しくない」ものに。
無限の「正しさ」があり、「正しさ」とは「成敗」を正当化する『道具じゃない』のに。
J先生のおっしゃるとおり、確かに、私のような、その考えは怖い。
先日25年を迎えた「地下鉄サリン事件」。
私は、幸い難を逃れたけれど、当時、事件が発生した駅は、職場の最寄り駅だった。
あれは、ある意味「彼らから見れば正しくない」世の中や人間を「成敗」しようとしたとも言える事件。
「正しさ」にこだわっていたハズの私は、ほんの数十分の違いで、
「彼らから見れば正しくないモノ」として「成敗」されるところだった。
「『自分から見れば正しくない』ものに対してのどんな攻撃も正当化される」ような気がするのは、怖いことなのだなと、今はわかる。
現代に「上様」はいないのだ。そして、いない方がいい。
ほんさき
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