小石の眼から見た景色 あらかた50主婦のあったこと録

その辺に転がっている小石のあれこれ体験録です。

「介護」のしんどさと「子育て」のソレは似て非なるモノ~決定的な違いは「終わり」への思い

ブログを始めて間もない頃、「おすすめ記事」によく掲載される人気のブログが面白くて、ドキドキしながら読者登録した。

それなのに、その方のある記事を読んで「なんだか、それは違う」と思ってしまい、登録を取り消してしまったことがある。

別に、読者登録したからと言って、全ての記事に「そうそう!」って思えなくてもいいのに、
しっくり合わない意見や感想があったってちっとも構わないのに、
スルーすることすら初心者で、大人気ないことをしてしまった。

その記事は「子育てと介護はそんなに変わらない」といった主旨だった。

介護と子育ての似ている部分

ちなみに、その記事自体、
「乳児期の子育て真っ只中にいる時は、可愛い我が子でも辛いことがある」
と、認識を改めた男性の思いが綴られている、素敵な記事だった。

その例えで、介護職の知人の辛さと一緒だと述べられていただけなのに、今思うと、やはり大人気なくこだわってしまった。当時の私は。 

2人の息子を育て、実親の介護を体験し、介護職としても少し働いた経験のある身からすると、
介護のしんどさと子育てのソレは、確かに似ている部分がある。

体力が必要で、しょっちゅう腰が痛いとか、
相手に合わせなければならず、自分のペースで過ごせないとか、
なんだかんだと出費がかさむとか(これは乳児期より義務教育後の方がかかるけど(;'∀'))。

そして、やはり何より命を預かる責任の重さ。

のんびりとした時間の中でも、常に危険がないか、身体の具合が悪くはないか、
気持ちのどこかが張りつめている。

それから、費やす時間の膨大さ。

実家に帰ったある日、通院やら買い物やら、必要なことはあらかた片付け、
夕食の準備には少し早くぽっかりと時間が空いた午後があった。

ソファーでうたた寝している母の横で、ふと「似ているな」と思った。

家事をあらかた片付けた午後、1人遊び中の長男の隣でのんびりしていた時の気持ちと。

忙しくはない。しなければならないことに振り回されてはいない。
でも、「何か」をするほどの時間はない
ゆるやかに「拘束された時間」に感じ、自分の人生がただ過ぎてしまうことに焦り、
「『幸せな時間』と思うべきなのだろうけれど、思えない」ことに焦った。

違いは「進んでいく向き」と「ゴール」

それでも「介護」のしんどさと「子育て」のソレは似て非なるモノだと思っている。

どちらも、日々は先の見えない長い道のりに感じるとしても、
月日が流れ、子育てで増すのは希望であり、介護で増すのは不安

子どもは少しずつ「できるように」なり、親は少しずつ「できなく」なっていく。
日々重ねるごとに進んでいく矢印の向きが逆なのだ。

子どもの離乳食作りに追われていたハズが、段々と同じものを食べられるようになる。
少し前までスプーンで口に入れていたのが、手づかみで食べ始め(この段階は逆に大変だけど)
いつの間にか、上手にスプーンや箸で食べている。

「夕食を冷蔵庫に準備しといたからね~」で済んでいた親は、
いつしかこぼすことやむせることが増え、冷蔵庫からテーブルに運べなくなり、
または、夕食を食べることを忘れてしまう。

大抵の子育ては、目指すゴールが見える。
真っ只中は、見えなくなるくらい追いつめられる時もあるけれど、
ある程度、この先どう進むか展望が見え、予測ができる。

あと1年後にはこれくらい。あと何年たてば幼稚園、小学校・・・。
ゴールは成長であり、喜ばしいコト。

介護は、この先どうなるのか、展望が見えない。
自分自身もどうして寄り添えばいいのか、目処が立たない。

一体、いつまで続くのか、いつまで頑張るのか、どれくらいまで自分の努力が必要になっていくのか。 

そしてゴールは悲しみであり、いつ訪れるかわからない。

「いつか終わる」を思う時

 子育ても介護も、「辛いな」と思った時、「いつか終わる」と思うことができる。
昨日も今日も寝不足で辛くても、いつか終わり、ゆっくり眠れる日が来る。

子育ての「いつか」というゴールは、少し目処のたつ「いつか」、喜ばしい「いつか」、誰もが待ち望む「いつか」。

介護の「いつか」というゴールは、必ず訪れるだろうけれど、全く目処の立たない「いつか」、悲しい「いつか」、望んではならない「いつか」。

辛さから心を解放しようにも、「終わる」を思う度に今度は罪悪感に苛まれる。

家族を介護していると、それがしんどくて辛い。

母は私が物心ついた頃から身体の弱い人で、よく寝込んでいた。
介護が始まった頃、医師からは
「1年後かもしれないし、明日かもしれない」と言われた。

介護で実家に戻らなければならない度に、いつまでこんな日々が続くんだろうと気持ちがくたびれ、
実家から自宅に戻る時には、「もう会えないかもしれない」と思い、
気持ちがあっちこっち行ながら2年以上経過した。

最後に交わした言葉は何だったのかわからないくらい、唐突に母はこの世を去り、
悲しみだけでなく、ホッと肩の荷がおりたような気持ちの私がいた。

そして「頑張って介護している立派な娘の顔をして、ゴールを望んでいたのだな」と、罪悪感を抱いた。

今は、その時ホッとしたのも、罪悪感を抱いたのも、それは当たり前のことだと思えるけれど。

 

介護は、先が読めないからこそ、ゴールを思うと辛いからこそ、今を見るしかない。

子育て中も、もちろんできる範囲で自分の時間を大切にして、親もリフレッシュが必要だけれど、
「子育てが一段落」の時が来てから始める何かを、計画することもできる。

けれど、介護はゴールが訪れた時、自分自身が一体何歳になっているのか?結構イイ年になっている。
そこから、どう自分の人生を生きようかと、計画することもできない。

もし、これを読んでいるあなたが、誰かの「キーパーソン」や「主に介護する人」になったら、
「介護が終わったら」ではなく、その時その時、できるだけ自分の人生も大切に、
やりたいことを諦めない範囲で、引き受ける方がいいよと思う。

そして、そのために何よりも大切なのは、その周りの人が、そのことにすすんで協力すること。
もし、あなたが「周りの人」ならば、自分が協力できることを考えてみてほしいと思う。

頑張っている誰かが、罪悪感を抱きながら「終わり」を思わなくてもすむように。 

ほんさき

↓ にほんブログ村に参加しています。

 にほんブログ村 ライフスタイルブログ 50代の生き方へ
にほんブログ村

にほんブログ村 子育てブログへ
にほんブログ村 

にほんブログ村 介護ブログへ
にほんブログ村  

にほんブログ村 子育てブログ 発達障がい児育児へ
にほんブログ村 

★こんな記事も書いています★   

www.honsaki.com www.honsaki.com

www.honsaki.com