祖父母にとって、孫とは「無条件に愛おしい人」。
何となく、そんなイメージを持っていました。
そして、「そのハズなのに、そんな記憶ないな」とも思っていたのです。 子どもの頃。
祖母の記憶
母方の祖母は、私が物心ついた頃には、もうすっかり「シワシワのおばあちゃん」。
孫の中で一番最後の私には、もうあまり興味のない様子。
相手をする元気も残っていないようでした。
家族皆で会いに行くと、大抵疲れている様子。
ただ、帰る時になると寂しがり、私たちの車を、いつまでもいつまでも見送っていた姿が一番記憶に残っています。
そして、他界した後、多分きっと気にかけてくれた人(と勝手に解釈している)。
父方の祖母は、私が幼い頃、母が寝込む度に手伝いに来てくれていました。
この祖母にとっても、私は、大勢いる孫のうちの最後。
恐らく、生意気で、手がかかって、面倒な子どもだったのだと思います。
幼い頃の祖母の記憶は、めんどくさそうに私を見下ろす視線ばかり。
祖母にしてみれば、そこそこ年を取り、自分の身体もきついのに、孫の面倒を見なければならず、
一番チビの孫(私)は、口が達者な割にオネショはするし、食べるのも何もかもゆっくりだし、
「あぁーーイライラする。」と思ってしまったのでしょう。
今は、その気持ちは、わからなくもないのです。
「やらねばならないこと」に忙殺されて、祖母とて余裕がなかったのだと思います。きっと。
けれど、
兄たちや姉には満足そうな視線を向けている祖母が、ウンザリした顔で私を見下ろす度に、
自分の存在が、いかに迷惑であるのかを思い知らされる気がしていました。
私に隠れて、姉だけにお土産を渡していることに気付くたびに、
「やっぱり、私は『橋の下で拾われてきた』のかな」なんて思っていたのです。
祖父は写真の中の人
父方の祖父は、父が子どもの頃に他界。
母方の祖父は、私が1~2歳の頃に他界したので、私は祖父のことは何も覚えていません。
それでも、母方の祖父には、何だか温かい印象を抱いています。
その理由は、家族のアルバムにあった一枚の古い写真。
小さな私を膝に乗せ、それはそれは嬉しそうな笑顔の祖父と、
何だかわからないまま、キョトンとしている私が写っていました。
厳しい面もあったとか、若い頃はどうだったとか色々と話を聞いても、
私にとっての祖父は、その写真の中の人。
幼い小さな孫を抱いて、嬉しそうな笑顔を浮かべている人でした。
残念ながら、その写真を見ても祖父のことは全く思い出せず、
知らない人に自分が抱っこされている姿を見せられているようで、
子どもの頃は、その写真を思い出しても、居心地が悪い様な気すらしていました。
記憶にない人を想う
親や親戚に言わせると、祖父は、最後の孫で、幼い小さな私を、
「ことのほか可愛がっていた」のだそう。
年に数回、遊びに行くと、いつも私の名を呼んで、膝に座らせていたのだそう。
そんな祖父の記憶が、私に、かすかにでもあったなら、
私はあんなに卑屈にならずにすんだのかもしれないな~なんて思ったりもします。
それでも、記憶にない人ではあるけれど、写真の笑顔の祖父に、
自分との記憶にないエピソードに、私は随分救われてきました。
私がいることが、「嬉しくて嬉しくてたまらない」なんて思ってくれる人が、
この世に確かに存在していたなんて、なんと幸せなことでしょう。
記憶にないだけで、知り合う機会がなかっただけで、
あるいは、たまたま他の残念な理由があっただけで、
実は、親、祖父母やその前の人々にとって、自分の誕生が、存在それ自体が、喜びなのかもしれないと、思ったりもしています。
実家にあったあの写真は、今は行方不明なのですが、
写っている嬉しそうな祖父の顔は、今でも、思い浮かべることができます。
自分に、いつか、もし孫が誕生したら、
その存在自体を、無条件で喜んで、満面の笑みで迎えられる、
「そんなおばあちゃんになりたいものだわ」と、思っているところです。
今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」
ほんさき
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