私は、つまり「馬」なのです。
【馬の耳に念仏】
馬にありがたい念仏を聞かせても無駄である。
いくら意見をしても全く効き目のないことのたとえ。(引用:goo 辞書)
ことわざを馬の立場で体験す
朝は5時過ぎに起きます。(早起きは苦手です(ノД`))
6時ごろになると、どこからともなく低い耳障りな音が響いてきます。
時には昼。夜の11時なんて日も。
始まると、1時間近く続く不気味な音・・・
実は、お隣のご主人が、大きな声で念仏を唱えているのでした。
低音ボイスの美声が過ぎて、我が家に届く時は、不気味な音。
もはや「うなり声」。
その「創〇学会」の皆さまにしてみれば、ありがた~いモノを唱えていらっしゃるのでしょう。
それはもう、熱心に。超イケボで。
しかし、私にしてみれば、かなり気味の悪い「うなり声」なのですよ。
「馬の耳に念仏」ということわざの中では、馬は
「ありがたい念仏の価値がわからない」しょーがないヤツ扱いです。
けれど、「念仏の価値がわからない」=「その宗教を信仰していない」でもあると思うんですよ。
お隣のご主人からすると、ありがたい念仏が「うなり声」に聞こえる私は「馬」
価値のわからないヤツなんでしょうけれど、
馬から言わせてもらえば、1時間近く不気味なうなり声が響いてくるのは正直気持ち悪いんです。
「馬の耳に念仏」だなんて偉そうに言ってますが、
耳元で念仏なんて唱えられたらイイ迷惑でしょ。
馬のセリフは「うるさいな~」ですよ。
読む自由それを浴びぬもまた自由
通勤途中にある「創〇学会」のお宅では、何人か集まって
大声で念仏を唱えています。
窓を開け放っているので、空から降ってくるよう。念仏を浴びている感じです。
もはや「集団で呪詛の会」のようで怖い。
通勤で通るだけだからビックリするくらいですが、
お隣さんだったら耐えられないわ。
とある選挙の前のこと、お隣さんが突然にこやかに「公◯党をお願い」と訪問されたので、
勇気を出して、言ってみたのです。
「少々念仏のお声が気になるので、音量や時間に配慮して欲しい」と。
すると、ご主人、間髪入れずに
「念仏ではありません『お〇目』です!」
え? 開口一番そこ突っ込むのーー!?
それを何と呼ぶかなんて、どーでもいいんですよ。
わたしゃ馬ですから。
ソレを崇め奉ってなんかいない相手に向かって
「『お〇目』と呼べ」という時点で、全くこちらを尊重する心はないわよねっ(怒)!
信仰している自分たちにとってのみ、重要な意味を持っているだけで、
信仰していない相手にとって、馬にとっては
念仏か呪いにしか聞こえないことを自覚することが、相手を尊重する第一歩だわよ。
(言えてないけれども…)
何を信仰しようとも宗教の自由があり、教えに従い「唱える」自由があります。
しかし、同時に、他の人間にも宗教の自由があります。
何も信仰しない自由も、その人と同じものを信仰しない自由も。
誰かの「唱える」、その人にとって価値のある念仏を
信仰していない誰かは「浴びない自由」があるのです。
多くの宗教家は、熱心に信者を増やそうとします。
自分たちが何かを信じて救われるのは自由ですが、
勝手に人を馬扱いして「なんとかしてやろう!」とズカズカ入ってきたり、
ありがたいものだからと「念仏」を浴びせたり。
そういうところがあるから、宗教は大嫌いなのよ。
ママ友の宗教断るキッパリと
ブログを始めた頃から、「エ○バ」にすっかり入れ込んでいるママ友からの
勧誘攻撃に困っていました。
子どもの学校での付き合いもあるし、自治会でも顔を合わすし、
なかなか面と向かって、ビシッと断りきれずにいたのです。
しかし、先日、ようやくハッキリお断りしました。
コロナ騒ぎのおかげ(?)で、突撃訪問が減り、ホッとしていたのですが、
新たにお手紙&メール攻撃。
丁寧なお手紙を見ると、少し心が痛みましたが、
子どもも違う高校に通い、接点も減っているし、
何より、その気もないのに、ズルズルとお付き合いするのも失礼よね、
と自分に言い聞かせ、
「あなたの信仰を否定する気はありませんが、
私は、今も、これからも、信仰するつもりは全くありません。
今後、お誘いは一切お断りします。」
と、ドキドキしながらメール送信。
了解の返事も送られてきて、長年の困りごとがあっさり解決したのでした。
もっと早く断ればよかったかも…。
さあ、これで、コロナが落ち着いても、居留守つかわなくていいんだわ~\(^o^)/
熱心に何かを信仰されている皆さんには、
ソレを信仰しない、関わらない、耳に入れない自由も尊重しつつ
勝手に平和に救われていただきたいものです。
今週のお題「575」
ほんさき
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