※タイトルから推測されるとおり、暗い内容なのでご注意くださいね。
そんなことに上手も下手もないのだろうけれど、
私は「悲しむことが下手なんじゃないか?」と、ふと思いついた。
それが、なんだかしっくりくる気がする。
他人と比べることでもないのだろうけれど、
私は、その時生まれた「悲しみ」が、あまり変わらず静かに心に沈んだままだ。
悲しみに打ちひしがれ、取り乱し、やがて徐々に上向いていく人達と違って。
他の人が、「私からはそう見えるだけ」なのかもしれないし、
別に「他の人より私は辛いの」なんて言いたいわけじゃなく。
私は、近頃、悲しみ下手のせいで沈んだままの「悲しみ」を、連なる思いを、
懺悔のように、無性に打ち明けたくなる。
これは、歳をとったということなのかもしれない。
けれど、打ち明ける相手も、場所も思いつかない。
以前は、鏡に向かって吐き出していた。
深夜、鏡の前で延々と吐き出し、一人でボロボロ涙を流せばよかった。
なぜだか、鏡の相手に他者をイメージできなくなって、
ひたすらに語る自分自身を眺めて、切なくなってしまった。
星や空を見上げて、胸のうちで語っていたこともあった。
子どもの頃はできても、おばちゃんになると、その様の不自然さが気になった。
仮に、もし、誰かに話すとしても、聞く相手の負担を思うと躊躇する。
きっと答えに困るだろうし、
「そんなことないよ」とか「そんな風に考えることないよ」とか
言わせてしまうのだろうなと思う。
なぐさめてほしいわけじゃないし、「優しいんだね」なんて言われたいわけじゃない。
どうしてほしいのでもなく、言いたいだけ。聞いてほしいだけ。
それならば、どうして、穴掘って叫ぶんじゃなくて、誰かに言いたいのだろう。
だから、今回は、何の結論も答えもない、ただ気持ちを吐き出すだけの記事。
無理だと思ったら、是非記事を閉じてもらいたいし、
コメントしなきゃと悩む事も、どうかなさらず、読み流してほしい。
それにしても、「悲しい」という感情は難しい。私にとって。
「嬉しい」「腹立たしい」「楽しい」
「怖い」「辛い」「切ない」「虚しい」「悔しい」「恥ずかしい」・・
意識しなくても、感情は嫌でも生まれてくる。
でも、「悲しい」は、ちょっと考えてしまう。
「あれ?これは、今、悲しいのかな?私…。」と。
大抵、辛い、怖い、悔しい、寂しいといった他の感情が前に出て、
悲しいのかどうか、よくわからなくなる。
約10年前、母が亡くなった時も、約7年前、父を看取った時も、
亡骸にすがり、大泣きしている兄姉とは温度が違いすぎて、
私には「悲しみ」が存在しないのかと、自分でも思ってしまった。
葬儀も、親族や地域の対応も、遺産分配も考えなければならなかった。
自分の家庭、仕事の段取り、公的手続き・・。
つい、「しっかり」してしまった。
その時に、上手に悲しめればよかったのだ。多分。
今でも、言ってしまいたい気持ちをしまっている。
こんなこと言われたって、誰だって困るよねってことを。
背負った判断への後ろめたさ、
結果論だとわかっている後悔、
逝く人の思いをくみ取りきれなかったコトへの懺悔、
全て言っても仕方がないことばかり。
上手に吐き出せたなら、少しは悲しみも薄れるのだろうか。
彼女が急に旅立ってから半年が過ぎようとしている。
突然この世を去ったのは、一つ違いの姉。
美しく、賢く、優しく、何でもできる完璧な人。
何の前触れもなく、突然「くも膜下出血」で倒れ、
そのまま一度も目を覚まさなかった。
独り身の姉の家族として、駆けつけた病院で、
私は、やっぱり「しっかり」してしまった。
医師の病状説明を聞き、手の施しようのない状況を冷静に受け止め、
家族として求められる、あらゆる判断を淡々とこなした。
葬儀、姉の職場への対応、身辺の片付け、公的手続き、
そして財産の整理。
またしても対応したくもない長兄との関わり・・
溢れだすのは、悔しさや、後悔、やり場のない憤りばかり。
なぜ、あいつではなく、善良な姉が亡くなるのだ?
なぜ、自分ではなく…。
忙しさが一段落し、沈んでいた悲しみを眺めている。
もっと連絡しておけばよかった。
会いにいけばよかった。
後片付けをどうしてほしかっただろうか。
もし、「それでも手術してください」と泣きついたら、
奇跡が起こっただろうか?
やっぱり、言っても仕方のないことを思い、
吐き出す場所もなく抱えている。
私の日常は何も変わらない。
食事は美味しく食べられるし、ちゃんと眠り、
面白いコトを探して笑っている。
風の香り、日差しの色の移ろいを感じた時、
「もう秋だね」なんて風に、季節を姉と共有できないことに、
ふと気付く。
※暗い内容に最後までお付き合いありがとうございました。
ほんさき
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